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妄と想

週末作家の連想いろいろ。https://twitter.com/KeitaIriyama

今朝、夢で見た式

久しぶりに夢で変な文字列を見たので記念に

言葉の力=受け入れた人の数/拒絶した人の数

・分子が分母よりも大きければ強く、分子が分母より少なければ弱い
・文章ではなく、辞書にあるような単語そのものは日常的なものほど1に近づいていくと思われる
・しかし、力の強弱はかならずしも価値の上下を意味しない


なんだかそれっぽい見栄えですが
これは一見しただけでも個人個人へ与える衝撃や嫌悪が度外視されているのが分かるので、特定の文章の社会性を計れそうな気がするだけの
役立たずなガラクタだったようです

なんとなくそれを引き継いで、自己分析や自分探しなどよりも、内なる読者を見つけることこそがどーのこーのとコラムっぽくできそうな感こそありますが、恐ろしくつまらないものが出来上がりそうなので、今日はやめておきます

文字が出てくる夢はたまに見ますがほんとうに当たり外れが多く
日頃の自分を超えるものにはなかなか出会えないことが多いです
最後に、以下はぼくの夢にでてきた中で一番好きな詩となっています


肩に落ちる木陰は揺れ
唇は背景を呼吸する
天気が別れの日のはやさで
繰り返すのは20代と日没
切れ味のいい今日が錆び
夜の訪れに逆らわないことだけが
それに逆らう、唯一の手段

https://twitter.com/keitairiyama

ぼくの小説に影響を与えた本その1

芝生の復讐
芝生の復讐 (新潮文庫)
リチャードブローティガンによる短編集。
芝生が復讐する表題作が面白いです。
のんきだったり、カラーフィルムのホームビデオのようだったりします。

ヴァージニアウルフ短編集
ヴァージニア・ウルフ短篇集 (ちくま文庫)
短編集。
異界と繋がっている人を初めて見たと思いました。
「青と緑」、「弦楽四重奏団」などの色や音を表すために塗り込まれた言葉に衝撃をうけました。
意外にアブストラクトな印象です。

箱男
箱男 (新潮文庫)
安部公房が好きというと叔父辺りの年代の人はあれは難しいねと言い、同級生の女の子は面白いと言っていました。
冒頭にある、男がかぶるための箱の製法が正確で、製図のような文章だと思いました。
徘徊暮らしのリアルさ、偽箱男や箱を売ってくれと言う看護婦。誰が誰だかわからない、物語が始まる前の物語。楽しかった。

カンガルーノート
カンガルー・ノート (新潮文庫)
晩年の安部公房の作品。
スネからかいわれ大根の生えた男が、自走式ベッドで地獄めぐりする話。
白昼夢のような文房具のプレゼン、主人公の知識すらも追っ手になったり、空飛ぶイカ爆弾から逃げるシーンもあります。
イメージに特化した日本語の省略精神、切れ味も醍醐味。

エレンディラ
エレンディラ (ちくま文庫)
ガブリエル・ガルシア=マルケスの短編集。
世界で一番美しい水死人の話は、ぼくの好きな作品ベスト3に入る短編です。
死者の埋葬で共同体が一丸となる過程と、ラストに学ぶものがありました。

予告された殺人の記録
予告された殺人の記録 (新潮文庫)
同じくガルシア=マルケスによる中編小説
証言のモザイクが増えるたびに1つの事件が浮き上がっていくのが気持ち良かったです。

笙野頼子三冠小説集
笙野頼子三冠小説集 (河出文庫)
笙野頼子 作。
土着で狂った不思議な「二百回忌」という作品が好きでした。トランス状態のような蘇生の儀式が終わり、大段円の果てに帰宅して、呪術の余韻として登場する最後の消しゴムが、拍子木のようなちんまい終わらせ方を担っていて好きです。

カメレオンのための音楽
カメレオンのための音楽 (ハヤカワepi文庫)
トルーマン・カポーティー 作。
カメレオンの色の変化が、疑わしい婦人の玉虫色の回答に色を添えています。
自分は解決しない事件ものが好きなんだと自覚した作品。

河童、或る阿呆の一生
河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)
芥川龍之介 作。
歯車の短い文章が章分けされているのが、小学生の自分には新鮮でした。
余白は優しいから好きなんだと思います。

薮の中
藪の中 (講談社文庫)
一人の男の死に関して、様々な証言を連続して並べて書いているが、証人と当事者の発言は七人七様で、全ての辻褄があわない。
解決されない事件というより、疑えば皆が疑わしく見える。という小説なんだと思いました。

スローラーナー
スロー・ラーナー (トマス・ピンチョン全小説)
トマス・ピンチョンの短編集。
エントロピーという、部屋で引っ越しパーティーをしている連中には和音コード、別の部屋で弱った猫を見守る男女には熱力学の用語が暗喩としてちりばめてあります。
音楽にはフィナーレ、熱力学にはヒート・デス
始まりがあったら終わりがあるという、共通点にはっとしました。


そのようなものが自分の体を通って混ざると
こんなものが出来上がります。

SNACK ADVENTURES
SNACK ADVENTURES
変な話って、いいですね。

https://twitter.com/KeitaIriyama

テーマ喪失の交差点

議論が動物じみた時代に、一体自分はなにを書くべきか、作家志望くんにはそれを一般化して語る手立てがなかった。テーブルに置かれたカレーを食べながら、幸いなことに、どんなふうにお手上げなのかだけは少しばかり分かっていることに気づくことはできた。やがて、手立てのなさだけでも書いておけば、なにかの役には立つかも知れないと思い直し、彼は唇をナプキンで拭き、先日登録したばかりのレンタルブログの作成画面を開いたのだった。



記事を書く


[ブログ始めました]


ついにブログを始めました。
メモがわりですが、最近なんとなく感じていることを、ぼくなりに書いてみたいと思います。


・個人の数だけ存在する、観念的または具体的な絶対論が相対論に落ち着く過程で登場する「人それぞれだよ」という仲裁の言葉に対し、「それはただの相対論だ」と怒ってみせる至極簡単な議論風景を見たことがある。

・しかし、議論の対象となる出来事に対して、好き嫌いという動機からも論理的、道徳的に正しい社会時評が作れてしまうというのは怖いもので、その原因は、誰が見ても完璧な出来事などなく、正義感には罪悪感に相当するブレーキが存在しないという点にある。


・教育を受けた人間同士による自然現象として、そのように安易に絶対化、一般化された社会時評は、反対意見としてぶつかることになる。もちろん、内容、正確さなどの、文章としての是非は問える。しかし、内容に道徳まで含んだ文献主義が必ずしも生産的な結論を導くとは言えず、また、人によっては、所属する立場によって、決して後に引いてはいけないという事情もある。


・日本人には哲学がないと言う人がいる。批判という、いわば最初からケチの付け方までセットになった、地雷を除去しながら地雷を売るような状態にあって、自身の哲学を得たり、それを表明した上で維持することは困難ではないか。

・特に大学で学ぶ哲学は、組織的な都合が信念を制約する。知の蓄積を担った論文発表のための場でもあるため、哲学研究はできても個人の哲学は得づらいという可能性ははいだろうか。

・言うまでもなく、車輪の再発明を避けるために哲学史を学び、ネタ被りを避けるのは大事なことだが、それが却って、人間の思想の発生とその反復性の研究の無自覚な放棄につながっているのではないだろうか?
人が他人の哲学を支持する、その基盤となるものが、理解ではなくて共感だったという残酷な結論の予感。そういった意味では、来年アフリカで自然発生的に生まれるかもしれない中庸思想は、とうの昔に書物に記載済みの中庸思想よりも数倍重要だと思えてくる。ああ、人文科学の上にトドのように寝そべる、明文化されない読み手の伝統や、歴史の一回性が忌々しい。きっと、これは他の学部の領域なのだろう。例えば、動物行動学と文化人類学の観察眼に、脳科学の追跡調査を混ぜたような……。


・ある哲学者が、著述家として思想を変える必要がないまま、死ぬまで意地が張れたとき、それが成功した原理主義者か失敗した日和見主義者かはだれにもわからない。
(しかも、仮に職業としての哲学的著述家という、原理主義者の人生を幸せに終えることができた人物がいたのなら、利益のために思想を変える必要がなかったという意味において、その人物は変化しなかった日和見主義という、利己主義の一形態を生きたとも言える)


・書籍化された思想には2つの壁がある。1つは普及、2つ目は思考の固定あるいは習慣の変化を強いること。無理ゲー。


・文字化された理念というのは実に厄介で、文学的、論理学的な査読を通して批判分析し、記述としてのisの=(イコール)性を高めていくうちに、その厳密さばかりが肥大し、かえって一般向けの説得力を損なうことがある。
(例:「抽象画は心象風景を描いているから具象画である」という結論は常識になりづらく、日常会話にも組み込みづらい)


・今や全ての他人の思想は選択肢としてのソフトウェアに過ぎず、人類のハードウェアにはなり得ない。なぜなら、人類のハードウェアは自分の思想を思いつき、他人の思想に反応することも可能な、機能ある器としての脳を含んだ人体そのものだからだ。
(仮に、万人が理性的に納得しうる愛の定義が完成したとしても、それは「愛とは~」と書き出す1秒前の世界の愛の有り様を全て記述したものに過ぎず、愛は愛だよと言うことと大差がなくなってしまう。さらに愛を正しく定義したという生産主義への嫌悪感から拒絶される可能性も十分にありうる)


ポストモダン文学がその定義上近代文学ではないという意味を孕むならば、文芸評論家の求める『ポストモダンを越える作品』とは、非近代文学であってはならない。しかも、ソフトウェアとしての近代文学を書くと別の人がそれだけで前時代扱いする。
(個人的に、その評論家は『メタフィクションはもう飽きた』とか『良くできた近代文学が読みたい。できればマジックリアリズムの影響抜きで』という願望を格好よく言っているだけだと思う)






と、ここまで書いて、作家志望くんは困ってしまった。水のおかわりを注いでくれた店員の後ろ姿、移した視界には、カップルや友達が、思い思いに談笑している。
自分を含めた大衆がランダム過ぎるため、観念ではなく、現象として完璧な結論など存在しないことがわかったような気になる。
返事はまだ来ない。視覚的に情報を得る機会で言ったら、伝統工芸すらサブカルチャーになってしまった時代に、メッセンジャーアプリが出てくる文学だって? 笑わせるんじゃない。世の中の流れは、紙に固定した物語が戯画化して投じたテーマよりもずっと速く変化していくものなのだ。食べるリズムで思考する。咀嚼するごとに、今まで大事に見守ってきた議論というものが、説得不可能な相手を、お互いに説得可能な相手だと誤解したまま説得し続ける、自己保存欲求に基づく不毛な作業に思えてきた。

耐えきれなくなり、窓の外を眺めた。手を引く母親の目を盗んだ子供が、こちらに手を振り、いたずらっぽく笑った。小さく手を振り返した彼は、現代を舞台にしたソフトウェアとしての近代文学を読んだとき、どのみち非マスターピースであるという最終評価しか受けないことを知りながら、己の力量を見定め、自ら歴史に残らないことを選択しているその作家に、真の英雄じみたものを見いだしたことを思い出す。
ポストモダン文学とやらも、これはこれで書けているからすごいと思ったこともあるし、芥川賞の選考委員のキャラのバラつきを眺めた際に、これはもう、言語化された理念を越えた人間性とか、割り切れない結論がカタルシスを生むような、言葉で言葉を否定する、言葉にしづらい作品書くくらいしか道がないなと思ったこともある。

見えない時間のように熱っぽい思考を中断させたのは、自重バランスを崩した氷のように響くドアベルだった。やっと来たかとそちらを向くと、視界には、新しく入って来た定年間近とおぼしきサラリーマンたち。獲らぬ狸のなんとやらで、作家志望くんはデビュー後の自分を想像して、吐きそうになった。英雄を待ちわびながら、現れた英雄を完全破壊寸前まで疑うおじさんたちの、おじさんたちなりに異なった完璧主義などに、とても付き合ってなどいられないと思った。

別に、大学を出て社会に出たおじさんたちじゃなくても、異なる意見の束になってしまったら、誰だって子供より手に負えない存在になってしまうだろう。エンタメでも食える人はごく一部だと中学生でも知っている、この、ウィキリークスの告発ですら無料で読める時代に、家族を脅されるリスクを背負ってまで、ただの政治思想をドラマ化するなんて、それ自体が私は動物として愚かですと言ってるようなものじゃないか。

ついに女は来なかった。彼は意を決した。今時、世界を変える文学なんて存在しないし、大成功しても文学を少しばかり変えただけという時代でしかないのなら、ここはいっちょ、自然科学出身の哲学者のように「わからないものはわからない」と潔く認めてしまい、別のわかるもので世界を変えよう。支払いに席を立つ前に、彼は、咳払いのような何気なさで、レンタルブログのアカウントを削除した。

信号が変わり、人だまりが崩れだす。彼がこれから手をつける仕事は、おそらく、成功するまでは本屋にも並ばず、検索したって出てきやしないだろう。ましてその成功は、文字と言葉を部分的な道具として用いながらも、決して文学史の一部などにはなり得ないだろう。様々な洋服と靴と頭がでたらめに入り交じる交差点を歩く。
およそそのようにして、作家志望くんは現実世界というスマホ時代の匿名世界に回帰した。

おしまい。
入山景太 (@KeitaIriyama) | Twitter

答えが風邪に吹かれている

 風邪を引き、お休みをもらいました。

 本日は、自己の実感と重なっている名言を書いてみます。

 

自然は自己の法則を破らない。

レオナルド・ダ・ヴィンチ

 

いずれ、誰もが自分の考えたいようにだけものを考えるようになるだろう。そうなったら、みんなの考えはますます似てくるだろうね。

アンディ・ウォーホル

 

すべて学び、そして忘れろ。

マイルス・デイヴィス

 

美しい物を作れ、そうすれば解決する。

―三木忠直

  

同じことを繰り返しながら違う結果を望むこと、それを狂気という。

アルバート・アインシュタイン

 

昨今、いろいろと過剰なので、ピントが合い、すっきりするための名言を読むと燃費がいいです。

耳に逆らうものはおつまみ程度に。

しかし、できることなら、黒ヤギさんのように読まずに食べたい。

というのが本音です。

 

さて、書いていたら眠くなってきました。名言は、痛みに届いて、速く効く。おっと、これはキャッチコピーでした。

 

ろくな晩じゃねぇや。寝ちまえ、寝ちまえ。寝て起きりゃ別の日だ。

杉浦日向子著「百日紅」より

 

それでは、おやすみなさい。

影武者徳川家康

ご無沙汰しております。

 

帰りの電車にて、どのような肩書きの人間も、眠らせてワニの鼻の先に置けばただの餌になってしまう。だからこそ大事にしなければならないのだ。という珍奇な発想に至り、ほとほと疲れ果てております。この「だからこそ」が、どこから来たものなのか、僕には皆目検討もつきません。

 

最近、仕事場と自宅の往復しかしておりませんで、週末作家の名折れといったところではありますが、よろよろと刀を杖に立ち上がり、少しづつではありますが、相も変わらず書いては消し書いては消しを繰り返しております。

背中には折れた矢が数本刺さっており、立冬の風に急ぐ雲、草枕も逆巻きて、聞こゆるは封筒ポップコーンの完成を告げる電子レンジの音ばかり。己がもう一人欲しい霜月の夜でありました。

旬のテーマ風ステーキ

 今日は皆さんとご一緒に、古代テーマ人も愛したという雑記を現代風にアレンジしてみましょう。

 

■旬のテーマ風ステーキ■

 

・テーマ(ブロックを熟成させ柔らかく、筋は残しておく)...100g

・過去(水で頭を冷やしアク抜きしたもの)...5g

・辛さ(心を開き、下手を取り除いたもの)...1/8個

・汗水少々(大量だと味がわからなくなる)...小さじ1/4

・旬の希望(長期保存した物は匂いを確かめる)...大さじ1

・ユーモア(テーマによってお好みで)...ひとつまみ

・分析(ユーモアをまぶし過ぎた場合には配分に注意)...1~100%

 

・テーマにその他の材料を加えます。火加減は人肌からホットコーヒー程度(炎上に注意)しっかりしているのを確かめたら、完了ボタンを押し、送信しましょう。

 

こうして出来上がったものが上記のブログになります。

※会食やお子さまの誕生パーティー等には不向きですのでご注意を※

レモンスライスからロープライスへ

 レモンスライスを食べています。最近ちょっぴり間食(じゃがりこ)の食べ過ぎでうっすら皮下脂肪がついてきたので、口寂しいときに、こっそりジップロックに忍ばせた3ミリほどのレモンスライスを一枚、皮ごと噛む生活をしています。職場で二枚、夜に一枚、といったところ。経済的。

 

 レモンというのはそれだけを好き好んで食べるようなものではないので、毎回、思った以上に酸っぱく、視界が一瞬点滅したような衝撃に加え、眉間と首の後ろが揮発したようにぞわぞわし、食べ終わると、さっぱりするのを待ちながら「しばらく味はいいや」という気分になれます。他の人がどうかはわからないので、これが自分だけのレモンスライスとの付き合い方なのでしょう。

 

 また、帰宅後に河川敷を歩くこともはじめました。腿を上げ、腕を振るって、大事だったんですね。体育の先生は苦手でしたが、体育が好きな自分にびっくりしています。麦茶も美味しい。

安売りの食材を大量に使い、レバーペーストトマトジュース、自家製の冷凍食品を作り出すかもしれません。よくわからない生活になりそうで、よくわからないなにかが楽しみです。