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妄と想

週末作家の連想いろいろ。https://twitter.com/KeitaIriyama

ガムを噛む。

 ガムが大好きで、もちろん、世界のビール缶のような包装のバリエーションも素敵なのですが、噛んだ感じと味や匂いが好きなので、いつも通勤のお供にしています。

 また、最近、なにもしないということに興味があり、お風呂上がりに自宅でゆっくりしているんですが、これがなかなか難しく、そのなにもしない状態づくりのためにも、ガムを噛んでいます。ガムを捨てたら、自分が顎の疲れだけになり、それが徐々に薄れていくのに身を任せるようにして、ぼーっとしています。

 

 友達に、YouTubeでひたすらステーキを焼く動画を見るのが好だったのがいます。お盆に会ったら、ついに2時間もある焚き火の動画にたどり着いてしまったそうで、曰く、原始的な落ち着きがある。とのこと。

 近々、彼が鈴虫の音声に手を出すような気がします。きっかけさえあれば、彼はきっと購入するでしょう。彼と古い付き合いのある僕にはそれが手に取るようにわかります。そう、火を見るよりも明らかです。

 お後がよろしいようで。  

宇宙飛行士の帰還

 お昼にソフトクッキーを食べました。今日も電車はどうでこうで、と書き出しはしても、ブログというのは難しく、空の旅はもとより、着地に何度も失敗してはその度に全消ししておりまして。

 

 伝える相手が定められないと、こうも日常が自分から社会へと、場合によっては人類にも宇宙にも広げられるという、身辺雑記の無限さ。蜘蛛の巣状の銀河がニューロンそっくりで、ただいま途方もなさを遊泳しておりますのは、なさの宇宙飛行士です。ええ、途方もなさとNASAがかかっております。おりますとも。

 

 宇宙飛行士で思い出すのも変な話ですが、去年の夏から自宅でメダカを飼っておりまして、もちろん地球で育てているメダカなんですが、自分たちの卵を食べるので別の鉢に移したら、卵の鉢にボウフラが発生し、大きめな三匹を再び戻したんです。そうしたら、メダカが稲妻のマークのような動きで、ボウフラをメチャメチャ食べるんです。その食欲はまるでブラックホール。おっと、また吸い寄せられて地球に帰還できなくなってしまうところだった。という、ふんわりとしたオチに着地したところで、僕はこれからカップラーメンを食べます。食べますとも。

 

おしまい。

書かれない部分への憧憬

 書き言葉にどっぷりの生活をしていると、不意に、世の中が語られない部分でできているような気持ちになります。

  書かれた世界と書かれなかった世界は、朝と晩ほど対として単純でないにせよ、真夜中の秘密、夜更けの陰謀といったものではなく、その人が「言ったってしょうがないと思っていること」や、その人にしては「珍しい弱音」が、案外いろんなヒントになっていることが多々あります。

  赤ん坊は何でもオモチャにするから乳児向けの玩具は効果が計りづらいんだよ。とか、コーラは赤いから、空き缶になっても見てしまうね。とか、シンクの丸穴の筒は、浅い方が掃除がしやすくて、野菜をこまめに捨てることができるのに。とか。

 

  誰かのアウトは誰かのストライクだと考えると、少し気分が晴れます。

    

手持ちの本から02/音楽の秋と読書の秋を同時に

  真夏も遠くなり、朝晩が過ごしやすくなりました。さて、読書の秋と音楽の秋を同時に楽しんでみてはいかがでしょう。

  演目は、ヴァージニア・ウルフの弦楽四重奏団と、梶井基次郎の器楽的幻覚。共に掌編となっております。

 

 

 

 ■弦楽四重奏団/ヴァージニア・ウルフ■

 

ヴァージニア・ウルフの弦楽四重奏団は混ぜ書きで、全てが音の比喩描写なのか、演奏中の観客のやり取りがコラージュのように挟まれているのか、文末も、演奏の終わりを表現したのか、演奏会終了後のやり取りなのか、明確な区別のないまま書かれています。

 

 

http://www1.bbiq.jp/kareha/trans/html/string_quartet,_the.html

 

ヴァージニア・ウルフ短篇集 (ちくま文庫)

ヴァージニア・ウルフ短篇集 (ちくま文庫)

 

 

■器楽的幻覚/梶井基次郎

 

梶井基次郎の器楽的幻想は、目がやっていることと、耳がやっていることが分けられており、楽曲に影響を受けた自己となっています。休憩時間は休憩時間、演奏終了後は演奏終了後と、きちんとわかるのが特徴です。

 

http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/422_19700.html

 

 

檸檬

檸檬

 

 

手持ちの本から01/本を読むときに何が起きているか

音、リズム、登場人物の顔。

本(小説)を読むときに読者が想像していることや、読者に起こっていることを文字とビジュアルで表現してある本です。


f:id:iriyamakeita:20161012212550j:image

※読者は観客であり、指揮者である。の頁より。

 

リンクから飛ぶと中身が少し見られます。

素晴らしい本です。

 

本を読むときに何が起きているのか  ことばとビジュアルの間、目と頭の間

本を読むときに何が起きているのか  ことばとビジュアルの間、目と頭の間

 

 

夜中の博物館に土の色ポートレイト

  アニメの監督が、土を描かせると出身によってみんな色が違うと、どこか楽しそうに言っていたのを、最近よく思い返します。

  こういった生活の中からの発見に、なぜ惹き付けられるのかわかりません。発想の種のようでもあるし、解釈を含んだ人間のおもちゃのようでもあるし、人生の中の小さな結論として、そのまま放っておきたい気持ちにもなる。

 

   電子レンジしか使わない料理レシピような、アレンジしてもいいしアイデアを眺めているだけで楽しい、そういったものかもしれない。

  少し楽しく、無限に語れるけれど、自分がそれを人生の役にたたせるのか分からないまま、放っておけるもの。

  ずぼら飯トークには詩と同じ共感の機能があり、とか、自動車ハンドルの遊びの部分を皮切りに、役に立たなそうな部分も大事だから持とうと言うこともできるけれど、どちらかと言うと、博物館アプリのように、あることだけを併記したい、そんな夜です。

科学のSF的だけど外れてほしい架空の未来

  これから、勝手に危惧してることを書きますね。

 

   昔の脳科学の記事で、異性愛者の男性の脳は、きれいな女のひとの写真をみたときに反応する部分とコカインを与えられたときに反応する部位が同じ、というのがありました。だからといって、女性はイコール麻薬ですとダイレクトに捉えたら、怖いなあと思いました。

  

   文学の描く対象のひとつに、漠然とした不安や焦燥というのがある(あった?)らしいんですが、これの原因のひとつに、白砂糖の過剰摂取というものがありまして、共感した読者の漠然とした不安のうち、いくつかは低血糖の症状として、食生活の改善で良好な状態に持っていけたりします。これは栄養学や医学のポジティブな応用ですが、例えば、精神医学上では、文学作品による浄化(カタルシス)とは、共感を材料にした、一方的な対話療法である。というふうに世の中がなってしまうと仮定すると、文学作品の浄化という用語が、多少なりとも変わってしまう可能性もあるのです。

 

   そういった影響は、生活にも及びます。脳科学の比喩で言い換えると、仮に、黄色い声援を研究するとして、黄色い声援を聞いたとき、もし黄色を見たときと同じ場所が活発になったり、声援には色はないといった場合はセーフですが、緑色を見たときと同じ場所が活発になった場合、黄色い声援は実は緑色の声援だったということになってしまいます。

   この日記の文学の浄化や声援の色味の話は架空の研究結果ですが、科学が進むということは、民間療法の「人体への効果」への是非だけでなく、生活の中で使っている「普段の言葉」そのものを、擬似科学的な用語だったという結論を導くことにもなりうるんです。

 

   では、科学的な研究成果によって否定されるのが、言葉ではなく、文化や道徳だったらどうでしょうか。仮に、他者への優しい手助けが、リラックス状態における微弱な人間不信とイコールであると証明されたとしたら、仮に、厳密な表記のために、善良な行動を示す言葉が、脳科学の用語から削除されるようなことになってしまったら、善良な科学者が口酸っぱく、モラリストとして釘を刺したにもかかわらず、優性遺伝や劣性遺伝とは価値の上下であるというような誤解(ほんとうは、遺伝子の強弱を指す言葉です)まで生みながら、そんなふうなブラックボックスじみた研究結果が人々に普及してしまったら、以後の人間の生活は、まるっきり違ったものになると思いませんか?

 

    なにも爆弾だけが生活空間を破壊する道具だとは限らないのです。受け取り方、伝え方、内容そのものの混ざり方によっては、論文だって、十分その役割を持ちうるのです。

 

   とはいえ、失神だけが医学用語でも、我々は現在も変わらず気絶という言葉を使い続けていますし、同じ動物だからと言ってわざわざ生きた人間を飛行機で貨物あつかいしません。ラブレターの締めくくりが、心から愛を込めて、から、脳が興味を持っている。とはならないでしょう。耐えられないという理由で、適用すら思いつけないものもあるのです。きっと人間の意味づけは、ひとりの人間や、ひとつの組織ではできないようになっているのでしょうね。