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妄と想

週末作家の連想いろいろ。https://twitter.com/KeitaIriyama

立場上対立しそうな二つの批評眼が一つの小説を同時に褒めるケース

 学生時代に読んだ異邦人というカミュの小説で面白かったのは、あの白壁に落ちる人の影のような、さらさらとした文学的な夏の光と文庫の解説でした。

 解説には当時相対していた自然主義派の文学者とロマン派文学者から歓迎されたという旨のことが書いてあったと思うのですが、これ、ちょっとすごいなぁと思ったのを記憶しています。

 そんなに詳しくもないまま「母親の葬儀で特に喪に服すことなく、すぐに情事を行い、人まで殺し、太陽のせいにするというのは、自然主義ロマン主義を兼ねているんだなあ」ということになぜか勇気づけられたことを覚えています。

 人が作ったものなのだから、こういったことも起こりうるのだと自然に納得できたこと、主義というのは現実には無数の中間地点や共通点を無視したポジショントークにもなってしまい、双方が意地を張ったり突っつきあう中で本質からずれていくといった、語ることでこじれてしまった部分に、迷い猫のようにしてこういった作品がやってくることに、人間の柔軟性の妙を感じたのだと思います。

 

 言ってみれば、形状からガチガチなべき論を組み立てる米粒派と、バリエーションに夢を見がちな小麦粉派とのケンカを、「広い世界にはいろいろあるよーん」と、ぱっと見てどちらかわからないグラノーラ、クスクス、米粉パンなどが仲裁したような、議論が一瞬の無風状態を迎えたように感じました。

 

 また、安部公房の小説で砂の女という作品があるんですが、それにまつわる評論家の話で面白いのがありまして、翻訳が出版された当時の中国とアメリカの評論家双方が、舞台装置となった砂の集落に対して、それぞれ自国の有様を重ね見たというんですね。

 

 よそのことなんてどうなってもいいと言う作中の女が、集落から脱出しようとしないままラジオが見せる外部の夢に憧れを持つ部分や、これから自分が見つけるかもしれない新種の虫が、昆虫図鑑にラテン語で永遠に記録されるかもしれないなどと夢見た男が、砂の集落で偶然作ってしまった装置が、この集落の人間に受けるだろうな、という、限定的な自慢の予感に落ち着くなどといった、どこまでもいろんな国のものに適用可能な寓話にちょっと感嘆したのを記憶しています。

 

 言ってみれば、オーガニック食品の会社もジャンクフードの会社も、組織としては相対しているように思えるけれど、上司って選べないよね、ひとつの属性のものを売ることに無理やり面白さを見出すのがつらいけど楽しいね、結婚して角が取れた新入社員がいてね。といったふうに、営業マン同士では飲み屋で共通の話題を持つことは可能だ、といったところでしょうか。

 

 ろくに本に当たらないまま、少し乱暴にまとめてしまいますが、異邦人の場合は意図しなかった中間地帯の完成であり、砂の女の場合は意図して普遍性に着眼した結果と言えるのかもしれません。

 

 そういったわけで、小説家や文芸評論家というものが、パンのみに生きるにあらず、と、まずはパンのために生きなきゃ、と言いあったたりする、個人に還元される断言を強制される職業である以上、あるひとつの作品の成功を測るとき、一人の評論や批評眼を、一神教の教えのように鵜呑みにするのではなく、複数の評論をさらに比較しなければいけないのかな、それは少しばかり億劫だな。というのが、ふわふわした僕の数少ない意見です。