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妄と想

週末作家の連想いろいろ。https://twitter.com/KeitaIriyama

昔の日本画には、なぜ太陽が少なかったのか(嘘考察)

   ふと、日本画って太陽より月ばかり描かれているなあと思い、考察してみたら案の定楽しくて、右も左も他人の失態や最終解答だらけの文字環境なのと、よく行くお蕎麦屋さんが閉まっているのもありまして、のどちんこや耳たぶのように、目的がはっきりしないのに見つめてしまう、箸休め的な文章を書こうと思いました。

    さて、図案としての太陽はあるのに、日本画としての太陽が少ないのは、どういったわけだろうと頭をひねると、ひねりすぎてキチキチに締め上げられた頭が破裂して、紙吹雪とともに、幽玄、という有り難くもあり陳腐でもある言葉が飛び出しました。

   幽玄な日本画を思い浮かべたら、やはりそれが日本画らしく、ぼんやりした月の日本画と、比較的太陽が描かれている、かっちりした浮世絵同様、画材がテクスチャーを規定し、テクスチャーに沿うかたちで多数の精神が一つの精神性に集束していき、岩絵の具の滲みや、空間として余白を使うなかで、同じ青を背景にした乳白色の円ならば、太陽よりも月という、おっといけない、なんだかそれっぽくなってきたので、この説はおしまい。よろしい。ならば別の角度から考えてみましょう。

 

(5分経過)

 

   はい、まったく考えられませんでした。さっき破裂したことすら忘れていたのだから、僕の頭が本当に破裂していることが十分におわかりいただけたと思うのですが、さすがに、考えられないというのは問題です。

   しかし、頭がないのなら、交尾中に頭を食べられ、反射的な運動だけになったオスのカマキリに倣えばどうでしょうか。自然から学べと、どこかの芸術家も言っておられた。そうしてみよう。

    反射、反射、反射、昆虫、昆虫、太陽。太陽は赤、警戒色、丸い、蛇の目そっくりの、鳥避けになった蛾の羽模様。そうだったのか。 ある種の芸術家は、夜行性の鳥のように、闇に羽ばたく生き物だから、真っ赤な太陽には毒があると思って警戒し、蛾のように月の光を目指していたのだ。

    さすがだ、さすが、頭がないオスカマキリだ。考えることがシンプル。実態に即するのみならず、首から下だけという、心頭を滅却した状態にありながら交尾を続ける、プラトニックとは真逆の存在なだけある。などと、そんなふうにして、今日もまたこのブログに、筋の通った大間違いをおかしている、でたらめな文章が配備されました。ありがとう、頭のないオスカマキリ。ありがとう、閉店時間の蕎麦屋さん、ありがとう、破裂した頭。今度、皆様への一括したお礼を兼ね、失った頭部の代わりに、ざるそばをシャンプーして差し上げましょう。メリットのないことができるほどスーパーリッチ。

 

痒いところはございませんか?

 

おしまい。