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妄と想

週末作家の連想いろいろ。https://twitter.com/KeitaIriyama

背表紙の檻と水槽

  音楽は進化論にあるような自然淘汰をしている(かもしれない)という記事を読み、思い出したのは、飛行機から見た平野から谷合にかけて、アメーバが侵入するように細くなった居住地の形でした。

 

   少し、人間の社会を、そういうふうに見てみましょう。

 

   ジャングルや砂漠や氷原にすら父長をリーダーとしたグループを形成してきた強い傾向があり、それの発展形として、どこの国でも中世は中世だったと言わしめる封建的社会があったこと、三平方の定理(無矛盾な表現の代名詞として使用しています)すら、教科書から離れ、現実での伝え方によっては威嚇の道具になってしまうこと、社会の成熟が、欲望のコントロール度合いよって評価されていくことに平行して、欲望の実現がそのサービス化を強めること。

 

   歴史のある地点からの人間とは、経済やスポーツ、学力試験のように、本能を外部化し、擬似的な弱肉強食を自作する生き物なのかもしれません。

 

   そんな目線で、文学作品の有り様を見てみましょう。

 

   自然科学に明るくない僕から見ても、人間を正確に近い形で表現できるのは自然科学なのかもな、と思ってしまいます。フィクションや、公文書ではないといった意味での小説というのは、その乾いた残酷さに耐えられない人々の気休めになっていくことが予測されます。

 

   なんらかの参考図書としての文学作品の衰退を、「なんの役に立つの?」といったものまで含めた、受け手の選択の結果として見るならば、作中で断言された人間は、参考図書の旗とり合戦の武器として弱かった証拠であり、お約束や安心感の多い大衆小説や映画、アニメなどは、未来が不安定な時代への反動なのかもしれない。

 

   さらに、Twitterやブログのように、活字による「べき論」が、かつては読み手側だった人々のものになり、プロよりロマンチストで、プロよりリアリストな読み手だらけだというのが現代の傾向で、純文学作品の中で戯画として表現に変換された人間や社会は、「もう知ってるからわざわざ読まなくてもいい」で済むものなのかもしれません。

 

   また、ネコに鈴をつけるネズミたちの童話はもとより、高すぎる理想を簡単に実行できる世の中ではないのに、書き手が20世紀式の英雄ソムリエや大衆ソムリエのような、啓蒙と扇情を混ぜたオピニオンリーダーのまま、作品を世に出すというのは、対応した番組がないのに8Kテレビを作って無理やり売るようなものだったのかもしれません。

     

    画質の比喩を続けると、現代の作家というのは、GoProのように「ハイから比べるとロウだ」と、意地悪な方の画質マニアからケチをつけられたり、高画質にこだわりすぎて、必要最低限の画質のものがしかるべき人に受け入れられるとは思わなかった方式の、もの作りの盲点として評価されるような現象が、大量の是非を無視したまま突っ走る、お客さんの24時間を奪い合う商売人の時代を生きており、作り手といえど商売人で、かつ、読み手同様に受け身な存在なのでしょう。

 

    僕は、今のおじいちゃん世代が、現代の作家に対して、昔の現代作家ほどのパワーを感じず、頭が悪いように言ってしまうのは、今の作家が、他人など説得不可能で、書き言葉で人間をコントロールすることは不可能だと知っている、そういった種類の、当時とは別の頭の良さを知らないからだと思っています。当時の作家を、貴族のように省略可能な、民衆にとって選べないリーダーだったとは言い切れませんが、読み手同様、受け入れられる作家の傾向もまた流動的なものだったのかもしれません。

 

   僕は、小説というものが、これからもきっと、視力の退化した魚のように闇を闇と認識しなかったり、突然変異をやめて昔の姿を保とうとしたり、たくさんの蜜で蜂をあつめたり、蟻酸で同類を認識したり、人間のように言葉について言葉で語ったりといった、どこまでも分類可能で、自覚無自覚を問わず、どこまでも進みたい方向に進むものであり続けてほしいです。

    また、作者や読者にとっての、いい小説とはこうあるべきだ。という基準が、最終的に個人の好みになってしまい、どうあがいても選択の集合体になった自然淘汰じみた現象に逆らえない時代にあったとしても、それ以前の状態、目のつけどころや、理想的な筋の巡らせ方や肉づけの選択だけは、双方にとって自由自在なままであってほしいです。