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妄と想

週末作家の連想いろいろ。https://twitter.com/KeitaIriyama

テーマ喪失の交差点

議論が動物じみた時代に、一体自分はなにを書くべきか、作家志望くんにはそれを一般化して語る手立てがなかった。テーブルに置かれたカレーを食べながら、幸いなことに、どんなふうにお手上げなのかだけは少しばかり分かっていることに気づくことはできた。やがて、手立てのなさだけでも書いておけば、なにかの役には立つかも知れないと思い直し、彼は唇をナプキンで拭き、先日登録したばかりのレンタルブログの作成画面を開いたのだった。



記事を書く


[ブログ始めました]


ついにブログを始めました。
メモがわりですが、最近なんとなく感じていることを、ぼくなりに書いてみたいと思います。


・個人の数だけ存在する、観念的または具体的な絶対論が相対論に落ち着く過程で登場する「人それぞれだよ」という仲裁の言葉に対し、「それはただの相対論だ」と怒ってみせる至極簡単な議論風景を見たことがある。

・しかし、議論の対象となる出来事に対して、好き嫌いという動機からも論理的、道徳的に正しい社会時評が作れてしまうというのは怖いもので、その原因は、誰が見ても完璧な出来事などなく、正義感には罪悪感に相当するブレーキが存在しないという点にある。


・教育を受けた人間同士による自然現象として、そのように安易に絶対化、一般化された社会時評は、反対意見としてぶつかることになる。もちろん、内容、正確さなどの、文章としての是非は問える。しかし、内容に道徳まで含んだ文献主義が必ずしも生産的な結論を導くとは言えず、また、人によっては、所属する立場によって、決して後に引いてはいけないという事情もある。


・日本人には哲学がないと言う人がいる。批判という、いわば最初からケチの付け方までセットになった、地雷を除去しながら地雷を売るような状態にあって、自身の哲学を得たり、それを表明した上で維持することは困難ではないか。

・特に大学で学ぶ哲学は、組織的な都合が信念を制約する。知の蓄積を担った論文発表のための場でもあるため、哲学研究はできても個人の哲学は得づらいという可能性ははいだろうか。

・言うまでもなく、車輪の再発明を避けるために哲学史を学び、ネタ被りを避けるのは大事なことだが、それが却って、人間の思想の発生とその反復性の研究の無自覚な放棄につながっているのではないだろうか?
人が他人の哲学を支持する、その基盤となるものが、理解ではなくて共感だったという残酷な結論の予感。そういった意味では、来年アフリカで自然発生的に生まれるかもしれない中庸思想は、とうの昔に書物に記載済みの中庸思想よりも数倍重要だと思えてくる。ああ、人文科学の上にトドのように寝そべる、明文化されない読み手の伝統や、歴史の一回性が忌々しい。きっと、これは他の学部の領域なのだろう。例えば、動物行動学と文化人類学の観察眼に、脳科学の追跡調査を混ぜたような……。


・ある哲学者が、著述家として思想を変える必要がないまま、死ぬまで意地が張れたとき、それが成功した原理主義者か失敗した日和見主義者かはだれにもわからない。
(しかも、仮に職業としての哲学的著述家という、原理主義者の人生を幸せに終えることができた人物がいたのなら、利益のために思想を変える必要がなかったという意味において、その人物は変化しなかった日和見主義という、利己主義の一形態を生きたとも言える)


・書籍化された思想には2つの壁がある。1つは普及、2つ目は思考の固定あるいは習慣の変化を強いること。無理ゲー。


・文字化された理念というのは実に厄介で、文学的、論理学的な査読を通して批判分析し、記述としてのisの=(イコール)性を高めていくうちに、その厳密さばかりが肥大し、かえって一般向けの説得力を損なうことがある。
(例:「抽象画は心象風景を描いているから具象画である」という結論は常識になりづらく、日常会話にも組み込みづらい)


・今や全ての他人の思想は選択肢としてのソフトウェアに過ぎず、人類のハードウェアにはなり得ない。なぜなら、人類のハードウェアは自分の思想を思いつき、他人の思想に反応することも可能な、機能ある器としての脳を含んだ人体そのものだからだ。
(仮に、万人が理性的に納得しうる愛の定義が完成したとしても、それは「愛とは~」と書き出す1秒前の世界の愛の有り様を全て記述したものに過ぎず、愛は愛だよと言うことと大差がなくなってしまう。さらに愛を正しく定義したという生産主義への嫌悪感から拒絶される可能性も十分にありうる)


ポストモダン文学がその定義上近代文学ではないという意味を孕むならば、文芸評論家の求める『ポストモダンを越える作品』とは、非近代文学であってはならない。しかも、ソフトウェアとしての近代文学を書くと別の人がそれだけで前時代扱いする。
(個人的に、その評論家は『メタフィクションはもう飽きた』とか『良くできた近代文学が読みたい。できればマジックリアリズムの影響抜きで』という願望を格好よく言っているだけだと思う)






と、ここまで書いて、作家志望くんは困ってしまった。水のおかわりを注いでくれた店員の後ろ姿、移した視界には、カップルや友達が、思い思いに談笑している。
自分を含めた大衆がランダム過ぎるため、観念ではなく、現象として完璧な結論など存在しないことがわかったような気になる。
返事はまだ来ない。視覚的に情報を得る機会で言ったら、伝統工芸すらサブカルチャーになってしまった時代に、メッセンジャーアプリが出てくる文学だって? 笑わせるんじゃない。世の中の流れは、紙に固定した物語が戯画化して投じたテーマよりもずっと速く変化していくものなのだ。食べるリズムで思考する。咀嚼するごとに、今まで大事に見守ってきた議論というものが、説得不可能な相手を、お互いに説得可能な相手だと誤解したまま説得し続ける、自己保存欲求に基づく不毛な作業に思えてきた。

耐えきれなくなり、窓の外を眺めた。手を引く母親の目を盗んだ子供が、こちらに手を振り、いたずらっぽく笑った。小さく手を振り返した彼は、現代を舞台にしたソフトウェアとしての近代文学を読んだとき、どのみち非マスターピースであるという最終評価しか受けないことを知りながら、己の力量を見定め、自ら歴史に残らないことを選択しているその作家に、真の英雄じみたものを見いだしたことを思い出す。
ポストモダン文学とやらも、これはこれで書けているからすごいと思ったこともあるし、芥川賞の選考委員のキャラのバラつきを眺めた際に、これはもう、言語化された理念を越えた人間性とか、割り切れない結論がカタルシスを生むような、言葉で言葉を否定する、言葉にしづらい作品書くくらいしか道がないなと思ったこともある。

見えない時間のように熱っぽい思考を中断させたのは、自重バランスを崩した氷のように響くドアベルだった。やっと来たかとそちらを向くと、視界には、新しく入って来た定年間近とおぼしきサラリーマンたち。獲らぬ狸のなんとやらで、作家志望くんはデビュー後の自分を想像して、吐きそうになった。英雄を待ちわびながら、現れた英雄を完全破壊寸前まで疑うおじさんたちの、おじさんたちなりに異なった完璧主義などに、とても付き合ってなどいられないと思った。

別に、大学を出て社会に出たおじさんたちじゃなくても、異なる意見の束になってしまったら、誰だって子供より手に負えない存在になってしまうだろう。エンタメでも食える人はごく一部だと中学生でも知っている、この、ウィキリークスの告発ですら無料で読める時代に、家族を脅されるリスクを背負ってまで、ただの政治思想をドラマ化するなんて、それ自体が私は動物として愚かですと言ってるようなものじゃないか。

ついに女は来なかった。彼は意を決した。今時、世界を変える文学なんて存在しないし、大成功しても文学を少しばかり変えただけという時代でしかないのなら、ここはいっちょ、自然科学出身の哲学者のように「わからないものはわからない」と潔く認めてしまい、別のわかるもので世界を変えよう。支払いに席を立つ前に、彼は、咳払いのような何気なさで、レンタルブログのアカウントを削除した。

信号が変わり、人だまりが崩れだす。彼がこれから手をつける仕事は、おそらく、成功するまでは本屋にも並ばず、検索したって出てきやしないだろう。ましてその成功は、文字と言葉を部分的な道具として用いながらも、決して文学史の一部などにはなり得ないだろう。様々な洋服と靴と頭がでたらめに入り交じる交差点を歩く。
およそそのようにして、作家志望くんは現実世界というスマホ時代の匿名世界に回帰した。

おしまい。
入山景太 (@KeitaIriyama) | Twitter